今回は、石雲寺の清水住職による石雲寺の歴史についての、特別講話です。
石雲寺の成り立ち
寺伝によれば、今からおおよそ千3百年前の養老2年(718年)諸国を行脚していた華厳妙端という法師が、日向の地にやってきたと言う。
法師が山中の石上に座し瞑想すると、渓谷に紫雲を認め、不思議に思った法師が、河原に降りると周囲三丈(約10メートル)の石の上方に紫雲がたなびいていて、法師は一心に仏・菩薩の名号を唱えたところ、仏・菩薩の御影が現れたと言う。
石雲寺入り口
石雲寺の本堂
石雲寺の本堂内で清水住職による講話が行われました。
清水住職 普段は聞くことのできない貴重なお話も・・
左が開山した、大渓禅師。 右が宗祖の道元禅師
大友王子の位牌もありました。
大友王子の墓は、ここから少し下がったキャンプ場の近くにあったためか、いたずらや破壊があった。これを守るために大友皇子の五層の塔は、石雲寺に移されました。 近く石雲寺では、大友皇子の廟を安置する場所を整備したいとのことでした。
壬申の乱で敗れた大友王子が、この地に逃れ住まわれ亡くなったとされる。
この五層の塔の相輪が失われ、別の五輪塔の相輪と思われるもので補われている。
尚、日向の地には「御所の入り」「御所の入沢」「御所の森」「錦織」など、皇室ゆかりの地名が残っています。保存管理の為に元あった場所には、現在レプリカの五重塔が置かれています。
レプリカを作る際にわかったことは、五重塔の石材はこの地で採掘される日向石ではなく、上質な根府川石と判明する。
石雲寺縁起には、大友王子をお世話した嫶善内の名も見える。
大友皇子は、天智天皇の後に即位しなかったと日本初期には書かれているが、明治政府は明治3年に第39代弘文天皇として、追号しています。
参道の石段を登りきると左側に「石尊社」があります。たしか大山の頂上にも・・。
石尊権現を祀り「雨降石」をご神体とする。寺にご神体とは奇異であるが、室町期に起こった、仏と神はもともと同体であると言う「神仏集合」の名残りとのことです。
最近まで、このお堂が建っている場所だけが国有地で、国の管理だったようです。寺が現在の地に移され前は、日向側を挟んだ向かい側にあったそうです。そこにも国の所有地が一部残っています。
これは本物
この寺がある日向は、北条玄庵が管理統治していたところでした。この朱印状は「北条家が保護する寺院であることから、不当な妨害は許さない。むやみに寺域に立ち入って竹木切る等、秩序に背くものがあれば、申し出なさい」。という内容です。
明治になって新政府は徳川幕府から受けた印判状の提出を命じました。当時の住職は北条家からの印判状を提出させられる場合を考えて写しを作成されました。
しかし、幸いにも提出をまぬがれ、、原本と写しの両方が現存しています。
今般の文化財指定に際し、精緻に模写された写しも価値が認められ、原本と写しが併せて指定されました。写しは書体も陰影も極めて似せて書かれ、書き写しした住職の真摯な努力が見て撮れる。
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