心経塚から三之宮に歩く予定でしたが、予定していたバスに乗りそびれ、逆コースで回ることになりました。
先ず最初に訪れたのは、吉川醸造さん。
地元の名酒、清酒・菊勇でおなじみの吉川酒造さん。県下に醸造業は12ありますが、昔のままの麹製法で醸造しているのはここだけだそうです。
かつて伊勢原市は葉タバコの産地であり、吉川家では煙草の製造販売を行っていたそうです。
しかし、煙草は国の専売事業となり、吉川家も商売替えを迫られることになりました。
新たな事業の投資先の1つとして酒蔵を買い取り酒造業へ参入。
以前は、酒造の他に醤油や味噌などの製造も行っていたようですが、現在はでは、酒造業のみ。
化粧塚
国府祭に供奉する氏子の人々は神社に入る前に、注連縄が張られている化粧塚の前で麦藁を燃やして身体を浄める。8時にデタチの酒を酌み交わし出御するが、この時に担ぎ手は雄たけびをあげて拝殿にあがり神輿にとりつく。この時にあげる声は「乱声(らんじょう)」といい、乱声をあげるのが三ノ宮の特徴である。
担ぎ下ろされた神輿を中心に行列を組み神社を出て、行列は化粧塚の上を通り神輿をいったんその上に下ろす。現在はそれだけのことであるが、昔はここまできちんとした服装でいった供奉の人たちが、ここで身支度をかえて旅装束になったものだという。そして帰りはここで旅支度から正装に変えた。
三之宮 宮ノ前遺跡
約1万2千年前から始まり、1万年間続くこの長い時期が縄文時代で、人々の生活も環境の変化に順応して大きく変わっていきます。そのひとつが土器の発明です。三之宮比々多神社境内の宮ノ前(みやのまえ)遺跡で発見された土器は、日本はもとより世界でも最も古い部類に属する土器です。この土器の発明により、食材を煮炊きして食べることが容易となりました。
また、同じ遺跡からは弓矢の先につけた石の矢じり(有舌尖頭器=ゆうぜつせんとうき)がたくさん出土していますが、この弓矢の発明も動きの速い中小の動物を捕るための工夫です。この矢じりを作っていた遺跡が、数百メートル離れた三ノ宮・下谷戸遺跡で見つかっていますが,そう珍しいものではありません。
※縄文時代の壺のかけらや、矢じりは雨上がりの翌日に、畑などで見つけることがあります。
神社の裏側には、縄文時代の住居跡と環状列石と敷石住居遺跡があります。
現東名工事の祭に発見されたものが、ここに移設されました。
今回画像はありませんが、下尾崎横穴墓
西相模を代表する規模の大きい横穴墓です。南北100メートル、縦73メートルから90メートルの高さです。斜面が横欠墓で、26基(40基あった)あり、このうち17基が調査済み(1基に15遺体が収容されているものも)従来横穴式墓は身分の低い人の墓とされてきましたが、ここではそうでなかったようです。
馬具の「輪ぶみ}は全国でも3つしかないものが出土したといいます。
三之宮三号墳
東名高速道路建設によって発掘調査され、後に左側にあります敷石住居と環状列石(ストーンサークル)の移設とともに復元されたものです。
この積石により当時の知恵と努力がしのばれます。
同じく東名工事の祭に発見された古墳が、移設されたものです。
三之宮比々多神社
大明神の前に「冠」が付く格式の高い神社です。淳和天皇が、相模の国司橘峰継に紫耀氏に詔して「冠大明神」の神号を贈られ、三之宮比々多神社は、相模の総社として栄えました。
三之宮神社は、その昔後ろに見える建物の奥にありました。時の宮司が三浦一族助けて小田原北條勢に抗したため、社運衰微の憂目を見た。北条氏が勝利し、この付近は北条氏の領有になり、三之宮比々多神社は北条氏によって、埒面から現在の地に移されたと聞きます。元の三之宮神社跡には、本宮として祠があるのみ。
市内で一番古い斎藤家住宅
ここには、市内で一番古いといわれる斎藤家住宅があります。
齋藤家住宅は、保管されている押板(おしいた)に書かれていた銘「延享二年八月十四日 大工米山源右衛門嘉惟(よしただ)」により、延享(えんきょう)2年(1745)に建てられたことがわかりました。
現在市内に現存する建築年代がわかる民家としては最古のものです。
何回か改修が行われていますが、家の造りや柱、梁(はり)などはほとんど変わっておらず、建てられた時の形態がよくわかります。柱や梁は、欅(けやき)が多く使われています。
齋藤家は三之宮村の名主を務めた家柄で、土間以外の「なかのま」にも玄関を持つなど一般の民家のつくりとは違いがあります。
松山古墳
松山古墳の現状は径19m・高さ5mだが、半円状に墳丘をめぐる黒土の帯を周溝と見立てると、当初の規模は径34m・高さ6mの円墳となり、石材の露出がないことから竪穴式石室とすれば5世紀を下らない頃の築造と推定されるとのこと。現在未調査。
その解説には、丘陵の端で360度の眺望が得られる立地により「相模で一番美しい古墳」。
伯母様観音
案内板によると、北条氏が家臣の市施弾正左衛門康則にこのあたりを領地として与え、
市施氏の伯母の梅林理香大姉が所領していたため「伯母様村」というようになったそうです。
この地は、江戸時代大山詣で参詣する人たちの通り道だったようです。
また、伯母様のバス停の名前が、珍名として広く知られるようになりました。
心敬塚
連歌中興の祖といわれる心敬は、応永十三年(一四〇六)に紀伊国名草郡田井庄(現在の和歌山市)に生まれた。幼いときに出家し、比叡山で修行を積んだ。京都東山の十住心院の住持となり、後に権大僧都に至った。正徹に和歌を師事し、『ささめごと』、『老いのくりごと』、『心玉集』、『心敬僧都百句』、『芝草』などの著作を遺した。宗祇は弟子に当たる。宗祇が名匠として選んだ連歌師七賢のうちの一人。
応仁の乱の騒乱を避け、関東へ下向し、太田道灌の父、道真が開いた連歌会「河越千句」などにも参加した。文明三年(一四七一)夏、相模国大山山麓の古寺、石蔵山浄業寺に身を寄せ、同六年には江戸城で開かれた太田道灌主催の「武州江戸歌合」の判者を務めた。翌七年(一四七五)四月一六日に、当地石蔵(伊勢原市上粕屋字石倉)にて没した。享年七〇歳。
当地は、心敬が大山、江ノ島などの景色を愛でながら、都を偲んで歌を詠んだところとされる。墓所は北東下方約二〇〇メートルの浄業寺との伝承もあるが、地元では古くからこの丘を“心敬塚”と呼び、心敬を祀る地として手厚く護持している。
浄業寺跡
『新編相模国風土記稿』によると、鎌倉時代の建仁(けんにん)元(1201)年源頼朝夫人の北条政子により建立されたといいます。建仁元年は、頼朝の死(正治元年・1199)から2年後で、三回忌にあたる年です。
山号を石蔵山(せきぞうざん)といい、開創当初は浄土宗で本尊は釈迦如来像でした。
この地は中世白根郷に属し、鎌倉末期には赤橋北条氏の所領であり、幕府滅亡後は足利尊氏の妻・赤橋登子から足利義詮と伝わり、足利将軍家の直轄領(御料所)であったと推定されています。
扇谷上杉氏が相模守護となり、糟屋の地に守護所が置かれたため糟屋には様々な文化人が訪れたようです。詩僧万里集九(ばんりしゅうく)は糟屋に泊まり、江戸に向かいました。浄業寺には京都東山十住心院(じゅうじゅうしんいん)の住持であった権大僧都で連歌師の心敬(しんけい)が、文明3(1471)年頃寓居したようです。心敬は太田道真・道灌親子とも連歌などを通して親しく交流しました。心敬がここで著した『老いのくりごと』には、寺の「本堂苔に古(ふ)り、台傾(かたぶ)き檜皮(ひはだ)破れて・・・」とその様子を記しています。文明7(1475)年4月12日、心敬はこの地で没しました。寺跡の南側丘陵上に「しんけい塚古墳」があります。心敬はこの古墳の傍らに葬られたのではないかともいわれています。
その後長く荒廃したようですが、江戸時代前期に中国・明の禅僧・隠元が渡来して、禅宗の一派である黄檗宗を伝えました。隠元の法をつぐ黄檗宗の高僧・独本性源禅師が江戸の新山氏と力を合わせ再興しました。江戸の豪商が力が大きかったようです。
明治維新後は寺領も減り、檀家も少ない寺は衰微に向かったようです。明治37(1904年7月の大雨により裏山が崩壊し、建物は壊滅しました。再建活動は続けられましたが、明治41(1908)年、ついに廃寺となりました。
当寺の本尊・釈迦如来像は小田原市入生田(いりゅうだ)の黄檗宗・長興山紹太寺(ちょうこうざんしょうだいじ)に、昭和4年4月4日に遷座したことが同像の首の中に墨で書かれています。
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