三ノ宮地区ウォーク
10月7日(火)久し振りに晴れてウォーク日和。
コース
【三之宮比々多神社】⇒【三之宮神社元宮】⇒【埒面古墳】⇒【保国寺】⇒【万松寺】⇒【県立塔ノ山緑地公園】
三之宮比々多神社 創建年代は詳らかではないが社伝では西暦前660年、神武天皇6年天下安泰、国土豊饒のために建立とあるが一般的には4世紀末と推定される。市内(相模)の文化発祥の地とも言われる。
①県重要文化財「うずらみか」
②関東最古の狛犬
③日の丸を打った布目瓦・・・ などがある。
その他:郷土博物館には周辺の古墳から出土した、まが玉、金の装飾品、直刀、馬具、土器などが展示されています。
比々多神社は、現在の地より上の丘にあったが、小田原北条に抗したため、三浦氏滅亡後に社運衰微の優し目を見た。埒面から現在の地に移され小さな社を建てたそうだ。
あれが江の島よ! ほら あれ!あれ!とか・・
比々多神社元宮 ここからの眺めが素晴らしい。写真の説明板を見ながら指さす方向は、ランドマークタワーか?
元宮の展望台は、2020年に設置されました。コロナ禍の為か、訪れる人が急に多くなりました。
ミカン畑やブドウ畑が続く高台にあります。
次は埒面古墳 元恵泉女子大学建設時に発見された古墳 元恵泉女子大学の敷地内にあるため、一般者の人が立ち入ることは出来ません。
石室からは、大刀や銅鏡、金銅製の馬具、銅椀は当時の相模における最高権力者に供された副葬品と考えられます。
続いて下尾崎遺跡 この斜面に26基の横穴墓がありました。26基中17基の発掘完了し墓の入り口には、現在蓋がされ埋め戻されています。
鐙、直刀、金の装飾品などの副葬品から、横穴式古墳でもかなりの権力者の物と思われる。
江戸時代の中頃、この寺に教戒(こうかい)という坊さんがいました。慈悲深く、特に子供好きであったらしい。当時貧しい農村の幼な児たちの生命は、いつも死の危機にさらされていました。教戒和尚は、数多く失われる幼児の死を悼み、その健全な成長を願って、丈六の地蔵尊大像と百体子育て地蔵尊造立の大願を立てます。百体もの地蔵尊を造ろうとしたのは、1人でも多くの子供たちに十分に仏さまの目が届くようにするためためです。小像百体の子育て地蔵尊は近郷百か村に勧請されて、それぞれの集落を戸ごとに一夜の供養を受けながら巡った。
今でも「一夜地蔵」または「まわり地蔵」として三ノ宮白根などの集落をめぐっているそうだ・・。
白根の住人の我が家には、まだ回って来ないが・・これからでしょうか?
万松寺前の農道の斜面に、彼岸花を見つけ、彼岸花の一生と咲き方についての説明がありました。彼岸花は種子を付けるも種子では増えない。球根で増えるようですが・・が!!どうしてこんなんところに咲くのかの質問に、ガイドもタジタジに・・。
きっとコウノトリが運んできたのかも・・・しれませんね。 後で調べておきます。
萬松寺紀州天野里の阿字の長者の一子、子の聖は東国にに巡錫しました。「子の聖」とは、青年月日及び生まれた時間までが子にあたっていたために付けられた呼び名で、本名は救世若という。遍歴の後、子の聖はこの地を選んで庵を結び、土地の開発と仏法の弘通に力を尽くした。人々は聖の徳を慕い「子の権現」と呼んで崇めました。
栗原には聖峰、笈平、子の神石(座禅石)など、子の聖にちなんだ名が伝えられています。
萬松寺の和尚様が寺の歴史について、説明をしてくださいましたた。
萬松寺小田原北条氏の臣で、白根の領主であった「遠山左衛門尉康英」は、萬松寺を再興し、主君北条氏康の位牌所としました。氏康は後北条氏の最盛期を築いた第三代目の当主です。
※笈・・僧が旅行中に仏具、衣装、書籍、食器などを入れて背負って歩く箱のこと。
※北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直(秀吉の小田原攻めで滅ぶ)
ウォークの最後は、県立塔の山緑地公園で昼食です。
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