小田原一夜城ウォーク
天候:曇り 午前降雨確率30%(18時以降の降雨確率80%)朝方は少し肌寒い感じでしたが、風はなく、歩くとちょうどいい気温でした。
今回のウォークの観ボラスタッフ紹介(一夜城にて)下見時の写真
3年越しの計画で、ようやく実ったウォークです。企画担当者の熱い、熱い思いがようやく実現しました。
今夜はよく眠れたことでしょう。次期企画では、北条方の城の総構えの中に入って難攻不落の城と言われた訳を探ります。
出発前の体操「生命の星・地球博物館前」にて
太閤橋で早川を渡る。橋からは、屏風山、二子山、駒ヶ岳などの箱根の山々が見えました。橋から先は、なだらかな登りです。
途中、江戸城の石垣を造るために切り出された石が、道路わきに放置されたまま残されていました。切り出した石をこの斜面から誤って落としてしまったのだろう。
石を加工するための矢穴も見られました。こうした石が数か所に残されていました。
こんな大きな石を、一つ一つ切り出し加工し、江戸城まで運ばれたと思うとすごいというしか言葉がない。
こんな大きな石をどのように運んだか、当時の技法が知りたくなりました。
更に先に進むと、石曳道とよばれる跡が残っていました。ここを丸太を敷き、牛や馬などで引いておろし、海岸まで運び、船で江戸へ。当時はワイヤーなどはなかったであろうし、そのことにすごく興味深々。
その先に、石丁場群関白沢支群があった。ここに道路を通すにあたり、この史跡を残すために道路を高架させ、石の加工場跡を保存しています。
ここは石の加工場跡で、原石をここで石垣用のサイズに成形する場所で、その遺構が残る。
原石には、矢穴跡が付けられたもの、それを割ったものなどが残り、その工程が見て取れる。
と・・いつの間にか秀吉から徳川に、話がすり変わってしまいましたね。
話を、一夜城に戻します。
穴太衆による野面積みの石垣。400年たった今でも往時の様子を伺い知ることができます。
わずか3か月で築いたものとは思えない規模です。
1班、一夜城公園に着きました。ここには秀吉軍と小田原北条軍の配置が記されています。
攻める西軍の秀吉軍、関東の守りの北条軍(この時まだ徳川の天下ではない)これが事実上の日本の最大規模の天下分け目の戦いであったと思えます。幸いにも小田原城は無血開城となりました。
これが、秀吉軍と小田原北条の配置図、すきあらば我が天下人と狙う徳川、裏切りの伊達政宗。どっちが正義かというと侵略者は秀吉。もっと悪いのが徳川。
ここで、北条軍は全長9Kmという総構え(深い堀)を築く。障子堀りという北条方の城の独特の堀である。数年籠城戦に耐える能力を持つ北条軍の城である。
しかし、二十数万の敵に囲まれてしまっては・・。
もし、もしもですよ、伊達政宗が裏切らなかったら・・これが戦国の世。
秀吉の一夜城の石垣(実際には数か月の準備)当時の石垣つくりは、穴太衆による野面積みと言われる関東初の石垣造りと言われています。ただ城本体は・・
1班 小田原城が見えますか~! しばらく探しようやく見つける。
2班 小田原城見えますか~!
遠くに見える山は、明神、明星か?
本丸裏側の下にある曲輪の石垣に座ってお昼食タイムです。
結構野面積みとは言っても大きくいいがゴロゴロと・・
画像は高画質で掲載しています。拡大、印刷も可能です。
いいですねー 野面積みの集合写真です。これもいいかなぁ~と。
気が付いたら2の旗が逆ではありませんか!
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