西部用水・平間散策ウォークの記録

2022年6月3日(金)

田植えも始まり、いよいよ本格的に給水を始めた西部用水の流れと平間の散策ウォークの記録です。

好天(過ぎ?)に恵まれ日差しも暑いせいか駅の構内で受付です。今回も多数の方にご参加頂けました。

イトーヨーカ堂南の公園で恒例の準備体操です。流石に体操リーダーの身体の柔軟性とキレは違います。

そもそも西部用水とは?全く知識が無かったので調べてみました・・。

相模川で相模原市磯部にある取水設備から取り入れている様です。この取水設備の事を専門用語では頭首工(とうしゅこう)と呼ぶそうです。語源や由来も気になる用語です。

そもそも左岸とか右岸は川の流れに向かって右か左かを呼ぶ様です。

西部用水は右岸側になりますが、取水口は左岸です。どうやって右岸へ送るのか?その方法が「伏越(ふせこし)」という方式との事です。近くには猿ヶ島の運動公園等も有り伊勢原の農業用水の源を探索に行って見ても面白いかもしれません。

伏越というのは、川や道路の障害物の下をくぐって水を送る方式の様です。入口側を吞口(のみぐち)、出口側を吐口(はきぐち)と呼ぶそうです。下がその模式図です。

面倒な話は兎も角、この様に取水された用水は愛川、厚木を経て伊勢原に入り、東海大病院の下から渋田川を”伏越”で越えて、市役所と協同病院の間を通って、小田急線、池端をくぐってやっとここまで↓たどりつきます。ここからが今日の用水ウォークとなります。


用水の脇は花壇が作られ暗渠になった上はアジサイの咲く遊歩道となっていました。

途中で分水用の堰(専門用語が不明です)があり、用水はここで直進と左折に分けられます。左折する用水は丘の下のトンネルを通って反対側の上平間に送られます。

分水堰から少し行った先で左折して団地内の坂道を登って丘の反対側に降ります。

突き当りの道を左に進むと風化が酷く何も読めない石碑があります。

この道は田村道と中原道を結ぶ街道だった様で、石碑は月待講の二十三夜供養塔で資料(伊勢原の道標)によると、正面には弐十三夜塔と4名の施主、右面は「此方いゝやま道」、左面は「此方かなゐ□」裏面には「天保六年・・・」と彫られていたとの事です。

この下平間の民家の間の用水路は先程の分水堰から鉄塔の下辺りのトンネルを経て送られ来たものです。

ここで折り返して街道を進んだところの右側に上平間の稲荷神社があります。

稲荷神社はあちこちに有りますが、左側のポスターの数には負けるかもしれません・・・


上下平間の共通の鎮守の神明社での集合写真です。

江戸の分村時にはこの社の主導権を巡っての争いが有りましたが奉行の裁定で交互に当番で祭礼を行う事で決着したとの事です。分かれても合併してもトラブルはつきものです。

下平間の旧名主の大谷家の長屋門です。

別の大谷家の前の湧水池で水神が祀ってあります。

円形の管の内側から水量は多くなささそうですが水が湧いています。

別の民家の入口の脇の用水路からは勢いの有る水の流れる音が聞こえてきます。

この用水は裏の丘の反対側の西部用水から来ているものと思われます。

丘の反対側の用水路です。ここから道路を「伏越え」でくぐってトンネルで丘の反対側にある先程の民家の用水路に送っていると思われます。

ここからは西部用水を遡る帰路となります。

途中で大句の方に分水する堰がありますが疲れたのかそのままスルーです・・・

南公民館で休憩後、バス組と徒歩組に分かれて駅に戻りました。

好天に恵まれアスファルトの照り返しも多く蒸し暑くもありましたが、水や信仰を巡る先人の執念と労苦を感じられた事と共に、用水路の水の流れる音と時折吹く木陰の涼風に助けられ、無事に楽しく今回のウォークを終える事が出来たと思います。