鎌倉ウォーク(北條義時・巡り)の記録

2022年9月9日(金)大河ドラマで盛り上がっている北条義時ゆかりの史蹟巡りウォークの記録です。

肖像画とドラマの俳優のギャップが大きいですが・・・

鎌倉駅西口の時計台広場に集合、準備体操の後ウォーク開始です。天気は曇りで暑さも幾分和らいでいます。

若宮大路に出て二の鳥居の前で段葛の説明です。

かって由比ヶ浜近くまで延びていた段葛と一の鳥居が皆の視線の先にあります。

二の鳥居から約500m歩いて鶴岡八幡宮です。

参道の左側のミュージアムでは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ドラマ館が開かれています。

ドラマの放送期間+初詣に合わせてか来年の1月迄の開催との事です。

石階段(61段)と実朝公暗殺で有名な2代目大?イチョウです。

2010年3月の強風で根元から倒壊した大イチョウの残った根から再生した株はかなり成長していました。その横の根元から4mで切断し埋めた切株からは多数の孫生えや胴吹きが生えていて植物の生命力と再生の努力に敬服です。

倒壊したイチョウの切り株は中心部が空洞化していて年輪は直接数えられないが残った部分から推定すると5~600年程度と考えられ、公暁が隠れるのはその先代のイチョウが有ったか、或いは後世の創作である可能性が高いという説も有ります。(ロマンが無くなります・・)

ほとんどの皆さんは上宮目指して石階段を登っていかれました。

大山寺の階段で鍛えられたせいでしょうか。

上宮の楼門の扁額です。八幡宮の使いの鳩で八の字を作っています。

鳩サブレーはこれをヒントに作られたとの事です。

北條得宗家館跡の宝戒寺の門前を過ぎて大倉幕府跡北側に源頼朝公の墓所があります。この墓は頼朝の落胤と云われる島津忠久の子孫である島津藩8代島津重豪(しげひで)により建立されたものです。

島津家は源頼朝の子孫で有る事を誇示するかの如く多宝塔の左の石碑には「薩摩中将源重豪」と彫られています。

頼朝と丹後局、愛甲季隆、縁切橋、小町神社等の逸話が思い出されます。

〈ところどころ思い出せない人は要復習でしょうか?)

頼朝墓所の東側に泰時の法華堂跡があり、その山側に宝治合戦で敗れ自決した三浦一族の横穴式墓所と言われる「三浦のやぐら」があり、その横に大江広元、毛利季光、島津忠久の墓所への階段があります。「やぐら」というのは中世に狭い鎌倉の地で崖に作った墓所の呼び名との事です。でも何で「やぐら」と呼ぶのかは分かりません。

急な階段を登ったところに大江広元とその子であり毛利家の始祖となった毛利季光の墓が並んでいます。この右側の階段には島津家の初代である忠久の墓所があります。

これらの墓所は昔のやぐら墓を江戸時代に島津家と毛利家が墓所として流用したものではないかとも云われています。

華やかな八幡宮から一転して灰色の墓参りの史蹟が続きますが、ここまで全て拝観できた方は自分の健脚を誇って良いと思います。

荏柄天神社の参道を抜け、御醍醐天皇の皇子の護良親王を祀った鎌倉宮で休憩した後、坂道を登り本日最後の覚園寺に到着です。(境内はは写真撮影や写生もNG)

境内の愛染堂には願行上人が大山不動像の試作で作ったと云われる「試し(試み)の不動」像が愛染明王の横に祀られています。大山の明王像より小ぶりで表面も錆色の様に見えます。

北條義時が夢に出た十二神将の戌神のお告げから建立した大倉薬師堂がこの寺の起源。

本尊の薬師堂は足利尊氏によって再建されたもので、天井には尊氏の自筆と云われる棟札が見られます。(写真が撮れれば・・・)

薬師堂は茅葺という事も有り、何となく日向薬師と比較して見てしまいます。

という事で、山門前で集合写真を撮った後、鎌倉宮バス停まで降りて解散です。(1の旗が逆なのは次に備えて敢えて不完全を残すという深い意味が有ったと推察します)

鎌倉の八幡宮より東側は西側に比べてマイナーな印象がありましたが、大河ドラマのお蔭で違った鎌倉を見直す事が出来、更に今後の大河ドラマもより興味を持って視聴出来るのではないかとも思いました(NHKの戦略に洗脳?された大河ドラマ初心者個人の感想です・・)

でも、鎌倉を探索する事で、大山寺、阿夫利神社、日向薬師といった鎌倉より更に古い歴史を持つ伊勢原を再認識できる機会でもあると思いました。

いせはら観光ボランティアガイド&ウォーク協会

伊勢原市を拠点とする観光活動を推進するボランティアガイドです。 伊勢原市周辺の観光案内や観光ガイド、ウォーキングなどを開催。