青山道「大山街道を歩く」5回目のウォーク記録

2月24日(金)2度の中止となった青山道⑤(さがみ野~海老名)の再チャレンジです。

午後から雨かも、という天気予報を少し懸念しつつのウォークとなりました。

相鉄線さがみの駅から青山道(矢倉沢往還)を通って、渡辺崋山の跡をたどってお銀さまの里も訪れました。

駅からの道は歩道も無く、横断歩道も少なく、歩行者にはあまり優しくない道を隊列を組んで南西に向かって歩きました。

やっと歩道が有る所で一息付いたところでルートの説明も出来ました。

この道路は海老名市と綾瀬市の境界に沿っていて、右側のマンホールは海老名市で左側は綾瀬市の図柄となっています。

フラワーランド海老名店でトイレ休憩です。ここ周辺だけは道路の左側ですが海老名市になっています。フラワーランドはご承知の如く伊勢原の西富岡が本店で、愛川町にも店舗が有る様です。

少し歩いた所に不動明王の道標があります。

右 国分、左 大塚・鶴間と彫られている様ですが表面が剥げ落ちて良くは読めません。

ここから青山道から分かれて古東海道と言い伝えられる左側の道を進み「お銀さまの里」へ向かいます。古東海道は年代によって幾つかのルートが考えられ、定説は無い模様です。

大山と丹沢の連山が見渡せる眺望の良い所がありました。晴れていれば富士山も拝めたと思います。崋山も同じ景色を眺めて歩いていたと想像します。



綾瀬の鎮守の子之社に着きました。神社のちらしによると祭神は大国主命で、火にまかれた大国主がネズミによって逃げ道を教えらえて救われてという故事が子之社の由来とのことです。子(北)の方を守るので子之社と呼ばれるというパネル説明もありました。拝殿内には牛若丸や源頼光を描いた江戸時代の絵馬や奉納額が多数あります。

鳥居は木造で両部鳥居(柱の前後に副柱と呼ばれるものあ有る)という形式だそうです。

鳥居の脇に青面金剛の石像がありました。見ると元禄十三年(年は異体字)と彫られていましたが、それにしてはほとんど摩耗も無く、像容も現代的ですので気になりました。

この地の寺子屋の師匠を偲んで門弟達が建立した墓です。江戸時代末期から明治時代には各地でこの様な墓(筆子墓、筆子塚)が建てられた様です。


墓の裏側にシキミ(樒)の木が植えてあり、黄色の花が咲いていました。この樹は寺院等に植えられいる事がありますが八角に似た実は猛毒(劇物指定)なので注意が必要です。大山の本坂登山道にも低木が何本か生えています。


先程の寺子屋が有ったと言われる延命寺です。本尊の地蔵像は厨子に納められています。脇には寝姿の釈迦像があります。

JA早園支店はお銀さまの帰郷後に嫁ぎ先の大川清蔵宅が有った所と言われています。

ここで冒頭の「遊相日記」の挿絵の様な崋山とお銀さまと実父の幾右衛門の対面が行われたということになります。


この公園の看板の裏手にお銀さまのお墓があります。


お銀さまの墓石には「皈元聞外全修大姉」と戒名が彫られています。

「皈元」とは「きげん」と読み、帰元と同じ意味で涅槃に帰るとう意味らしいです。

周りには大川家一族の墓石が並び、かなりの名家だっとも思われます。

ここにもシキミの木が2本植わっていました。


早園センターの庭をお借りして昼食タイムです。

昼食後に「遊相日記」の紙芝居をおこないました。


お銀さまの生家と言われる佐藤家です。お銀さまのな眼は「まち」と呼ばれていた様です。


目久尻川沿いの遊歩道を遡ります。悪さをする河童の目を「えぐり」取ったという目久尻川の名前の由来の説の一つですが、「えぐる」は漢字で「抉る」と書き「くじる」とも読むそうですが、一般的な読み方ではないのでピンと来ていない人もいました。風土記稿では「目穿川(米久自利加波)」と書かれていました。

国分寺跡の七重塔の基台の前で参加者全員(撮影者を除く)の集合写真です。前回の曽我ウォークと同じく総勢51名でした、3班の旗はどこに・・。

国分寺レプリカの海老名駅公園の七重塔の前で解散です。

雨も降らずに無事に3度目の正直のウォークを終える事が出来、担当幹事さんもやっと肩の荷が降りた様でした。青山道はまだまだ続きますので頑張って完歩を目指しましょう。

いせはら観光ボランティアガイド&ウォーク協会

伊勢原市を拠点とする観光活動を推進するボランティアガイドです。 伊勢原市周辺の観光案内や観光ガイド、ウォーキングなどを開催。