太田道灌史跡巡りウォーク記録

7月26日(水)は太田道灌公の命日です。菩提寺である洞昌院をはじめとする史跡を巡りました。

伊勢原駅北口から大山ケーブル行のバスに乗り、石倉橋バス停で降車。朝からの厳しい陽ざしでしたが、大勢の皆さんに参加いただき、バスもほぼ満員でした。

石倉腰掛不動尊の前で、いつもより軽めの準備体操をしました。今日の暑さで、熱中症にも気をつけ、コースを一部短縮してウォークを始めました。

石倉地区は現在も広域道路の工事が進められていますが、この不動尊は平成22年に道路工事のため、現在の地に移設されたものです。石倉腰掛不動尊は石倉住民の守護です。班別の説明が終わった後、地元に住む観ボラ役員からも説明がありました。

腰掛不動尊から大山へ向かう県道を横切り、地元の人が釈迦道と呼んでいた路地を歩くと、石仏道標があります。大山帰りの道案内です。何度かの移設の後、石倉橋にあったが、国道246号のバイパス道路工事のために大山川側に仮移設されたものです。大山へ参詣する人のための道標は多いが、大山から帰る人のための道標(山帰りの道標)と考えられています。

今回のウォークには、「一般ガイド養成講座」の受講生の皆さんもご一緒しました。

一般ガイド養成講座の受講生にとって最初の現地講座です。担当の観ボラ役員の説明に耳を傾けています。

石仏道標から大山川(連雀橋)を渡って、浄行寺跡に向かいました。

これも釈迦道でしょうか。この先、23段の階段を登り、新道の脇が浄業寺跡です。浄業寺は明治41年(1908)に廃寺となって、本尊の釈迦像は小田原市入生田の長興山紹太寺に遷されました。

浄業寺の案内です。建仁元年(1201)、源頼朝の夫人政子が建立し、石蔵山浄業寺と名づけて釈迦三尊像を安置しました。その後、戦国の世に荒廃したが、天和3年(1683年)黄檗宗のお寺として再興しました。だが明治年間に荒廃に帰し、明治41年(1908年)にはついに廃寺になりました。今は、黄檗宗時代の歴代住職の墓が竹林の中に残されているのみです。

浄業寺は、室町時代、当代第一流の連歌師として言われた心敬僧都(しんけいそうず)が最後の幽棲の地としたところです。

新道から竹ヤブを少し入ったところで、心敬研究の第一人者である近藤蕉肝先生から、道灌と心敬についてお話を伺いました。

心敬は、応仁元年(1467)、京で起こった応仁の乱を避けて関東に下り、上杉家で歌道の誉れが高い太田道灌が世話役となり、心敬を迎えました。この時、心敬61歳、道灌は35歳でした。その後、心敬は、浄業寺を訪れ、この地を気に入ったようです。先生からは、心敬の「老のくりごと」を取り上げて、心敬がこの地を最後の幽棲の地に選んだ理由など説明がありました。マイクを持たれて説明する先生の奥に池もあったとのこと、当時を偲ぶ面影はありません。

浄行寺跡からは新道を通って、心敬塚に向かいました。心敬塚の手前に急な登りがありましたが、木立が日を遮り、思ったよりは楽に登れました

浄業寺の南の台地上に「心敬塚」と呼ばれる古墳がありますが、心敬の時代とは大きく隔たります。このあたりに心敬が葬られたことから名がついたのかもしれません。写真は、2019年に建立された心敬の記念碑です。

浄業寺跡に続けて、近藤先生の講演です。心敬塚は日差しを遮るものがありませんが、その近くの木立ちの間で、時より、さわやかな風も吹いて、集中して先生のお話を聞くことができました。太田道灌の和歌、連歌が中心でしたが、日本最初の軍師や先生の故郷の話も飛び出しました。伊勢原には二人の世界的に有名な人物が眠っている、その二人が、道灌とその連歌の師心敬です。太田道灌が最期に詠んだ連歌が、新渡戸稲造の英文の名著「武士道」の中で紹介されて、道灌は武士道の鑑として世界に知られるようになったと伺い、あらためて道灌の魅力を学びました。

本日、浄業寺跡と心敬塚でお話を伺った近藤蕉肝先生(成蹊大学名誉教授)です。レジュメに目を通しながら、先生のお話をお聞きしましたが、久々のフィールドワークでした。

江戸時代には、上粕屋村の鎮守で、山王さんと崇拝された上粕屋神社です。この参道を利用して競馬神事も行われました。一般ガイド養成講座の受講生の皆さんは奥に見える社まで行きましたが、我々は、境内で一息休憩し、道灌に殉じた従者を葬った七人塚を見て、道灌の菩提寺である洞昌院に向かいました。

太田道灌の菩提寺、洞昌院の道灌公の墓石前です。今日は命日にあたり、参加者全員で、順々にお線香をあげました。トップの写真も焼香の風景です。

地元ではこの墓所は、通称「胴塚」と呼ばれています。太田道灌公の墓はこの他に、市内下糟屋の大慈寺(地元では、通称「首塚」)、埼玉県越生町の龍穏寺、鎌倉英勝寺の裏山、東京墨田区の法恩寺など数か所あります。

洞昌院の三徳殿(太田道灌霊廟)です。今日は、扉が開かれていました。

洞昌院の枝垂れ桜の下で、観ボラ役員から、洞昌院の山門に扉をつけなくなった言われについて説明がありました。刺客に襲われ、致命傷を負った道灌が洞昌院まで逃げ延びたが、門が閉まっていて中に入れず、力尽きたとも言われています。桜のの木が陽ざしを遮り休憩です。

上行寺の門柱です。住所は東京芝の二本榎、電話番号も三田の局番です。

観ボラ役員から、上行寺は昭和38年に東京から移転してきた寺で、長く江戸にあったことから、寺内には歴史的な著名人の墓を見ることができると説明がありました。

江戸時代初期の将棋名人、大橋宗桂のお墓です。将棋名人にふさわしく墓石が将棋の駒の形です。他にも、蕉門の十哲に数えられる宝井其角、「解体新書」の翻訳に参加した名医桂川甫周や槍の名人丸橋忠弥など、名だたる歴々が眠っています。

雨岳文庫(山口家住宅)に着きました。陽ざしを遮る場所をお借りして、持参した弁当を食べました。

冷たいお茶も、特大のケトルでご用意いただき、最高のおもてなしでした。御かわりまで催促したうえ、とれたてのナスも分けていただきました。有難うございました。

山口家住宅の前で、集合写真を撮りました。何度もポーズをお願いしたので前列の人にはご迷惑をおかけしました。

観ボラ役員から山口家住宅の説明がありました。平成11年、主屋と離れが国の登録有形文化財になっています。幕末期に石倉から引き屋をしてこの地に移されました。代官屋敷として使用することも考えて、民家でありながら武家屋敷の風格も漂わせています。山口家住宅とその敷地、同住宅に収蔵される貴重な歴史資料は「雨岳文庫」と総称して管理されています。

本日のウォークは、山口家住宅の説明で終了しました。

熱中症が心配される暑さが続いていますが、太田道灌公の命日に、道灌公のお墓に焼香し、道灌ゆかりの地を回ることができました。こまめの給水や日陰での小休憩に努めましたが、思いのほか湿気が気にならず、時より心地よい風も吹いて、皆で無事、完走しました。




いせはら観光ボランティアガイド&ウォーク協会

伊勢原市を拠点とする観光活動を推進するボランティアガイドです。 伊勢原市周辺の観光案内や観光ガイド、ウォーキングなどを開催。