伊勢原市の中世について、「市民文化会館館長」により伊勢原南公民館にて座学で学んだあと、岡崎城址の史跡を実際に歩きました。
小田急線の南側、伊勢原市八幡台地区から平塚市側に広がる丘陵は、岡崎台地を形成しています。
岡崎台地は標高30メートル~35メートル程度の台地です。
平地部の標高は10メートル程度で、多くは土腐と呼ばれる湿地帯でした。
平安時代の頃この地域は岡崎郷と呼ばれ荘園が開発された地域でした。荘園は地方の豪族、農民によって開発、領有化されますが、貴族や社寺に寄進の形を取り管理されました。
しかし、領有権を護る武士団が次第に勢力を増してくると、荘園を侵略、貴族や社寺にとって代わるようになります。やがて、岡崎郷では一帯の地域を統治するために岡崎城がきずかれました。
平安末期、治承年間(1177~1181年)の築城と伝えられています。
初期の岡崎城は、平塚地域あり城址岡崎神社があります。城主は岡崎四郎義実(三浦四郎義実)です。1180年(治承4年)源頼朝が伊豆で旗揚げの際はいち早く駆けつけ戦った功臣の武将でした。
その後、三浦一族の拠点として代々続きましたが、岡崎城が相模国中郡の要害として再び歴史上に現れるのは室町時代の中頃になります。
その場所は、現在の伊勢原市無量寺に移りました。
標高35メートルの台地に築かれた後期の岡崎城は、1494年(明応3年)に三浦道寸(義同)が手を加え居城としました。その頃、関東進出図っていた伊勢原宗端(北条早雲)の猛攻を受け岡崎城は落城しました。その後、岡崎城は北条氏の持ち城になったと思われますが、廃された時期はあきらかになっていません。この歴史に思いをはせながら、岡崎城址その史跡を巡り歩きました。
※極楽寺の釣鐘の寄贈 !?
確認できませんでした。
※真田与一は岡崎四郎義実の息子で、石橋山の合戦で戦死。
岡崎城概要
岡崎城址郭地 城郭の周囲の低い地域は葦などが生息する自然の沼地で自然の要害となっていた。
※葦は湿地などに生息
前期の岡崎城址地丘陵(現在)、平塚市側
後期の岡崎城址付近の丘陵(現在)、伊勢原市側
後期の岡崎城址(現:無量寺)、ここが岡崎城址であったと認識はされているが、城郭がこれほど大きなものであったと言うことは、あまり知られていません。
城の堀址に下る。
昭和54年6月21日に、天皇陛下が学習院に在籍していた時に、岡崎四郎義實公の墓地に訪れています。
変わった六地蔵
六地蔵ではありません。7体あり
芳園寺・大地蔵で日向石で造られているようです。
腰取神社からは、富士の眺望がみられます。
乙女地蔵 少し前まで覆堂(ふくどう)はなかったようです。
この乙女地蔵が建立され訳については、隣に説明板がありますので是非見てください。
これには悲しい物語が・・。
このほかにもたくさんの石祠、道祖神・道標、五輪塔・宝篋印塔などがあります。
与一神社
真田与一と家臣
天徳寺
野陣台
福寿池(以前は7つの湧水池がありました)
菅原神社
無量寺
腰取神社
浄泉院
岡崎神社
紫雲寺
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