これまで石雲寺の墓地に仮安置されていた(伝)大友皇子の陵が、石雲寺の境内(本堂前に)移設されました。
移設された(伝)大友皇子の陵
大化の改新を行ったことで知られる天智天皇の皇子、大友皇子は皇位継承の事から叔父の大海人皇子と戦い、敗れて近江山前(滋賀県大津市)で自害した壬申の乱。この時皇子は弱冠25歳であった。ところが伝承によると、王子は近江から逃れてこの日向の山中に隠れ住み、世をを避けて詩歌風月を友としてその一生をを送り、没後御所入り古廟塚に奉葬されたと言うのである。
歴史より消えた天皇であったが、後に弘文天皇と明記される。
石造五重塔は、相輪が失われ別の五輪塔の相輪が補われている。平成15年の調査は、14世紀後半ごろの南北朝時代に作られたものと判断されました。神奈川県下では数少ない中世の層塔として平成17年に、市指定文化財になりました。
この地に弔われた当初は、松の木が植えられただけだったが、鎌倉時代に五重塔が建立されたと伝えられたという。
現在御所入りの古廟塚にある五層塔は、本物と同じ石材でつくられたレプリカが設置されている。
雨降山石雲寺の本堂前に安置された大友皇子の廟
雨降山石雲寺
大友皇子の位牌もあり
石雲寺の山号は、大山寺と同じ雨降山である。開創1300年の歴史
又、北条早雲の三男の北条玄庵の朱印状「石雲寺に諸役を免除する通達した文書」、徳川家康朱印状などがある
石雲寺山門
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