太田道灌ゆかりの史跡を巡りウォークの記録

連日の梅雨の続く天気でしたが、運よく当日は曇り。コロナ禍初のウォーク開催になりました。参加者は全員マスク着用で、これまで経験したことのない異様な雰囲気。

今回のコースは、伊勢原駅〜山王原バス停下車 上粕屋神社〜七人塚〜道灌塚〜洞昌院〜三所の石橋〜咳止め地蔵〜丸山城址公園(昼食)〜高部屋神社〜道灌首塚〜大慈寺〜市役所前道灌像〜伊勢原駅解散。




先ずは、上粕屋神社参道でウォーク前の準備体操から・・・



上粕屋神社入り口

上杉館の鎮守でもあったという上粕屋神社(山王社)

山王社は、良弁僧正が1200前、大山寺を開創したときに勧請し、その後、山王権現、日枝神社、そして周辺の神社を合祀して現在は、上粕屋神社となった。良弁が神社を勧請だって??



上粕屋神社の本殿前に、推定樹齢1200年と言われる欅の御神木があり、中は空洞で幹の外側のみで生きています。



この御神木の中に、「ムンクの叫び!」と、誰が名付けたか模様がある。

見る人によっては、お化けのようと言う人も。立ち寄る機会がありましたら是非観てくださいね。


この上粕屋神社の裏手に太田道灌が家宰を務めた、上杉館があったとされています。

現在新東名高速道の付帯工事の発掘調査が終り、近いうちに明らかになるものと思われます。


上粕屋神社から100メートル程歩くと、七人塚があります。七人と言うのに、お墓が7つないんだけどとの質問・・ガイド)太田道灌ほどの方が江戸からくるのに、たった7人で来るわけがないでしょう。また、従者が誰一人江戸にもどったという記録もないことから、道灌に従って殉じた従者らは全員が惨殺され、近くにある林の中の七つの塚に葬られたという説である。

その後、農耕地の開発などにより、現在の地に移動されたと伝えられています。

やっぱり、七つ塚というより七人塚(七人の侍)と言った方が、カッコいいよね(納得です)。




道灌の命日は7月26日、墓前に線香を・・1486年、江戸城主・太田道灌は、主君上杉定正の粕谷館に招かれ、定正の命を受けた曽我兵庫ら一隊の刺客に暗殺された。

時に道灌享年55歳、墓石宝篋印塔は、北条早雲によって建てられたという。墓前の松の木は詩人「万里集九」(道灌と親交)の植えた手向けの松と言われています。

※北条早雲と同い年だったという説も・・いや違うとも 近年早雲の生まれは1456年が定説になりつつある。又、早雲は当時伊勢姓をなのっており、北条姓となったのは早雲の死後の事であり、この時北条早雲という名前は存在しませんでした。


道灌塚には、たくさんの歌碑があります。有名な「山吹の花」の歌がありますが、それに対し「いそがずはぬれざらましを旅人のあとよりはるる野路のむら雨」という歌碑があります。

少し雨宿りをして待てば雨が上がったのに・・と言うことだろうか?道灌は案外気の短い性格だったのかもね。



<<洞昌院山門前に続きます>>画像位置挿入ミスで訂正不可(すみません)


渋田川をせき止め、新田に引水した堰き止めが、いつか「咳止め」となり、辻の地蔵尊は咳止めの仏さまとして崇められるようになった。この地蔵様に願をかける時は、「初めは泥団子を上げ、病が治った時、お礼に米団子を上げます」とする風習があります。

少し途中をとばしてしまいましたが、ここまでに至る道は「大山道」で、途中千石用水路に沿ってしばらく道が続きます。

その千石用水路の水は、有事にの場合に上杉館の空堀に導水するための水路であったと言われ、現在は灌漑用水として利用されています。

<<東海大学病院>>の前を通って丸山城へ移動します。


洞昌院山門付近

洞昌院は蟠龍山公所寺という。太田道灌が関東管領上杉憲実の弟・道悦和尚のために建てた寺と伝えられています。

道灌は襲われたとき、この洞昌院に逃げ込もうとしたが、当時この寺に塀がはりめぐされていて、この寺の山門をたたいて助けを求めたが、山門は開くことなく、追っ手によって討取られる。と言うことで道灌の死は洞昌院山門前と言うことになります。

道灌が風呂に入っているところを狙われ奇襲された。

以後、洞昌院の山門に扉を付けてはならないと言いつがれています。


<<東海大学病院>>の前を通って丸山城へ移動します。


丸山城址公園で昼食です。 三密を守って昼ご飯を食べた後に集合写真。

全員マスクをしての記念写真。コロナが去って、こんな時もあったなぁと後にの思い出になるかも・・

丸山城は武士誕生のころ、左大臣藤原冬嗣の子孫が相模守として下向したまま、任期が満ちても帰らず、この地に住みつき、糟屋氏を名乗り武士となって、糟屋の庄を領した粕屋は丸山城を築き、地頭となりました。鎌倉時代、糟屋有季は頼朝の家人となり、一の谷の合戦や奥州平泉攻略に大活躍したが、鎌倉幕府の幕府の内紛に巻き込まれ、北条時政に攻められ自害する。

今は、丸山城跡ということがあってか、円形の敷地の公園となっています。

 

丸山城を発掘調査した時の、説明板の解説。


高部屋神社は、茅葺屋根の歴史を感じる神社神社です。創建は4世紀末と言われているからすごいですね。とは言っても当時は祠のようなものだったかも・・ここと同じ歴史を持つのが三ノ宮比々多神社。

もともとは。この地より西方の弥杉(いやすぎ)にあったものを、鎌倉時代に糟屋庄司であった糟屋氏が、自らの館の近くに移したといわれ、この社の辺りは糟屋有季の拠った丸山城の跡と言われています。

※ちの輪くぐりは一年を半分に区切り、最初の月(1月)(7月)に行われるのが多いようです。 その一つにはこの時期、ちの輪の用の青々とした萱が育つからとも・・


下糟屋の太田道灌之墓1486年7月26日、太田道灌は主君上杉定正の粕谷館で謀殺され、上粕屋洞昌院の裏山で荼毘に付されたそうです。道灌の霊を慰めるための、叔父の周厳禅師(大慈寺住職)が、供養塔をこの地に建てる。俗に道灌の首塚と言い伝えられていますが定かではありません。



下糟屋の大慈寺  

太田道灌の叔父にあたる鎌倉建長寺の長老周厳禅師が、鎌倉にあった大慈寺をこの地に移し、ここに住んでいた道灌の菩提寺で、道灌の位牌には「大慈寺殿心円道灌大居士」とかかれ、寺宝として「太田摂津守資順筆」による道灌の武者姿の画像(現在は普済時保管がある)また、道灌の持仏と言われる観音像もあります。


太田道灌の銅像


この像は、昭和50年に伊勢原町役場(旧伊勢原公民館)に建てられたものです。その後、シティプラザの建設に伴い、現在の位置に移動しました。銅像の姿は、鷹狩りのいでたちで、左手に弓、右手に矢を持っています。例年、太田道灌にちなんだ道灌まつりが10月に盛大に開催されるが今年は・・・どうなるか?コロナの影響がここまで及んでいます。

現在、道灌の像は神奈川、東京、埼玉、静岡等に数ヵ所あり、道灌の人気を知ることができます。

みやび男の子の 道灌さまは 花も実もある あづま武士


いせはら観光ボランティアガイド&ウォーク協会

伊勢原市を拠点とする観光活動を推進するボランティアガイドです。 伊勢原市周辺の観光案内や観光ガイド、ウォーキングなどを開催。