6月7日(金)に真田与一ゆかりの地を中心のウォークを行いました。
真田与一は岡崎義実の嫡男で石橋山の合戦で25歳の若さで討たれた逸話が有名です。屋島の合戦の那須与一、壇ノ浦の浅利与一と共に三人の与一が平家物語で語られています。
曇り時々腫れの天気ですが未だ梅雨入り前で湿度も少な目でしたのでウォークが楽しめそうな天候でした。鶴巻温泉駅の北口に9時に集合し、広場で縦鼻体操を行い出発です。
「けんけんぱ」が出来そうなマンホールの配置です(どうでも良い感想で失礼)
駅前のパネルで周辺地図の説明です。右側のヤドカリのオブジェは温泉旅館への「宿借り」をもじったものとの事で、東海大OBの西巻さんという出雲大社分祠に干支を奉納している彫刻家の作だそうです。
駅周辺は落幡村と呼ばれていた事の石碑です。落幡伝説は近隣各地でバリエーションがありますが、言い換えればそれだけ各地で親しまれた伝承といえるかもしれません。
ここは本当は落幡と言うんだ、という地元の人の気持ちも伝わってきます。
踏切の傍のアジサイも花盛りです。
踏切を渡って延命坂を登り切った所に「延命地蔵」があります。
地蔵尊の脇にあるパネルです。
「70~80は働き盛り」ですが、自営業ではない定年生活者なんかには蕾に続いて「・・・花盛り」と言って頂いた方が良い様な気もしましたが、年金政策の将来を考えるとこれで良いのかもしれません。
何度見ても圧倒される大ケヤキに到着です。樹齢600年以上とというケヤキは他にも有りますここまで巨大で且つ活力のあるケヤキは見たことがありません。延命地蔵の効力もあるのでしょうか?
かながわの名木100選に選ばれてますが、伊勢原にも100選に選ばれた名木が3か所あります。大福寺のクスノキ、阿夫利神社社務所のカシワ、日向薬師の幡掛けの杉、ですが、
カシワは枯れてしまい、クスノキは管理不十分で残念です。
次は「下部灯篭」です。大山道の大山灯篭で立派は覆屋が建てられるのはここだけとの事です。秦野市のHPによると灯篭の支柱には明和6年(1769)建立と書かれているので少なくとも250年以上は続いている事になります。 Youtubeで「下部灯篭」で検索すれば組み立て時の動画が見れます。
おおね公園で休憩です。予定より30分以上早く着きました。
大根川を渡って、坂道を登ります。ここはかっての大山道のルートで金目観音に繋がっています。
真田神社の鳥居です。瀬戸内海方面の花崗岩製で幕末に作られたものです。
江戸時代は牛頭天王社と呼ばれ、明治になって八坂神社、その後真田神社と名前が変わります。
真田神社の「大ケヤキ」です。左の株は2本に見えますが、幹の心材が無くなって外周部の一部が残っているものと思われます。かなり壮絶な経験を経て皮一枚で生き延びている立派なものです。
天徳寺の立派な本堂の前での集合写真です。
屋根の頂部の両端に有るのは「しび(鴟尾)」と呼ばれるそうです。(M田さんに教えて頂きました)調べてみるとトビやフクロウ等の鳥の尾の意味で形から沓形(くつがた)とも呼ばれるそうです。後年は火災除けとして魚(シャチホコ)に変わって行った様です。
与一堂です。本堂と同時期(平成23年)に再建されたとの事です。
堂に近づくと警報が鳴りセキュリティに気を使っている様です。
地下に与一の供養塔が納められていて、命日に御開帳されるとの事です。
与一の2歳からの養父でもあり石橋山で共に討たれた臣下の陶山文三家安の御子孫の陶山氏に与一と陶山氏について講演して頂きました。流石にご自分の御先祖を語る口調は熱意のこもったものでした。
その後、陶山さんにご用意いただいた真田のど飴を舐めながら皆で与一甚句を歌いましょう、という事でしたがマイクの音量が小さくて、大き声で歌える人も居なかったので合唱とまではいきませんでした。伊勢原には甚句があまり無いからでしょうか・・・。
与一の神輿です。命日の8月23日が例祭でこの神輿が本物の甚句によって練り歩きます。
重さは1トンかそれ以上有るとの事で、コンパクトカーと同程度です。担ぐ神輿では限界に近いかもしれません。
与一堂の前には根が咽喉の薬になると言われるホウズキが植えて有りました。花はあまり見た事がなかったので撮っておきした。
最後の訪問スポットの腰越古墳です。数が少ない前方後方墳で、古墳時代に前期に作られたとの事です。後ろには大山が、前には相模湾が見える絶景のロケーションです。
ここでひとまず解散としました。
何人かはここで借りましたが残りは古墳公園で昼食休憩後、12時51分のバス(小型)で鶴巻温泉駅に戻りました。
(観ボラ役員はバスの定員不足もあるので東海大学駅まで徒歩で戻りました。
名前しか知らなかった文三のご子孫から直接のお話も聞けて有意義な一日でした。
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