道灌ゆかりの史跡・心敬塚コースを訪ねるウォーキング。
あいにくの曇りぞらになってしまいましたが、この時期のウォークには丁度いい天気。
先ずは出発前の体操(やっぱり体操はKさんですね)。
ここは石倉橋付近で、国道246号バイパス工事と新東名伊勢原北大山IC工事でこれまでの様子が大きく変わろうとしている地域です。横断歩道を渡っている道路の一部区間(1.1キロ)が、間もなく開通予定だそうです。
石倉橋付近にあった腰掛不動尊は、道路工事のため移転を余儀なくされ、一番上の画像の建物に安置されました。長く石倉橋住民の守護神として崇められてきた腰掛不動尊をこれを機に、修繕することになり解体。すると中から、1690年左近作との子文書が見つかり、解析の結果動尊建立の時代、作者名、建立にたずさわった地域住民の人々の名義が判明。今後の扱いに注目ですね。
修復を終えた不動尊は木製ですが、まるで金属のような質感。火炎は上向き。
修理前の不動尊の写真も見ることができます。※画像は下見時に撮ったものです。
次に向かったのが浄業寺。途中に工事の為に移設された道標、ん~・・向きが逆では?
ここまで来ると大山への道標は必要はなく、大山詣りの帰り道の道標だったと思われます。
浄業寺の手前に川があり、これを超えると田んぼが・・オタマジャクシが孵化しアマガエルに興味を持ったのか、カエルに夢中・・まだまだ伊勢原には自然がいっぱいです!
橋を撮るのを忘れましたが、昔は丸太2本を対岸に渡されただけのもので、川に流されてもいいように片側だけ固定用の針金で支えていたとのことです。
浄業寺跡へ入り口は、大山道バイパス道路の工事中で、新しい道が・・。
今は、竹林に覆われ、歴代住職の墓が、あるのみ。
大山道パイパス
浄業寺跡
浄業寺は北条政子が頼朝の供養をするために、この地に石蔵山浄業寺を建立し釈迦三尊像を安置したたと言われれいます。この頃北条政子は頻繁に当地に足を運んでいます。
その後、連歌師として知られた京都十住心院の心敬僧都が最後の幽棲の地としたところでもある。
心敬は、1406年に紀伊の国名草郡田井庄に生まれ、東福寺の正徹について和歌を学び、宗祓の連歌師の師として当代第一流といわれた。京で起きた応仁の乱を避けて関東に下向し、東国を流浪した後、この浄業寺に寓居したのは、1471年頃と推定される。
なるほど、秋に行われる道灌まつりで恒例の北条政子の行列は、この時の姿を再現したものだったのか・・。
太田道灌との関わり合い
太田道灌の父太田道真の川越城の歌会(川越千句)には、宗祓と共に参加し、発句を心敬、二の句道真、第三を宗祓が読んでいる。
1474年には太田道灌が催した江戸城の歌会にも判者としてその名を連ね、1475年、この地に没した。行年70歳であった。心敬の著書『老いのくり言』は、ここで書かれたものである。
浄業寺住職の墓 墓石の塔の頭には、雲のような模様のようなものが、のっています。
そこから少し離れた丘に登ると、2019年3月16日に立てられた心敬の記念碑があります。
右側には、これまで見たこともないようなデザインの連歌の歌碑がありましたが、難しくて読めませんでした。カメラで撮っても鏡のように反射して撮れません。
天気が良ければ、心敬塚より湘南の海が一望できます。
心敬が浄業寺に棲んだ頃に詠んだ『遠海を みどりによする 夏の哉』この句は、この情景を詠ったものではないかといわれています。
伯母様バス停側からも登ることもできます。
心敬塚から伯母様橋を渡り、次は上糟谷神社へ
上杉館(道灌が家宰を務めていた扇谷上杉の居城)があったところ。
上杉館の守護神神で、この神社は約1200年前、良弁僧正が大山寺を開創した時に勧請したと言われています。
上粕屋神社
上粕屋神社には古木の大木が多く、ご神木のケヤキ。樹齢推定1200年
この御神木は「大樹の叫び!」
外輪:肉体的表現 豊満な乳房・恋愛成就・夫婦円満・子宝・子育・良縁・・魔除け
内麟:感情的な表現 不安・絶望・嫉妬・哀愁を感じ・呼吸心・苦悩心・愛する。
生き生きとした人間にエールを送る表情
ある方は私も昔はこんなだった・・なんていってましたが・・(笑い)
御神木の内側は空洞で中には、ムンクの叫びならず 大樹の叫びか!!
七人塚といわれています。大田道灌ほどの武将の従者が七人であるはずがない。一説によるとこの付近に七つの塚があったとされ、その一つが七人塚になったとも・・。
以前は別の場所にあったらしいが、農地を整備のためこの場所に移されたようだ。
次は太田道灌の墓地(市内に2ヵ所あり)太田道灌の墓は市内の大慈寺にもあります。
首塚・胴塚に分かれています。
以前墓地周辺は、高い樹木の垣根で覆われていましたが、高木はすべて伐採され、かつてのような墓苑の面影はありません。
今は、こんなにさっぱり。もう一つの道灌の墓は公園化され、市よって管理。
道灌の墓地を管理する洞昌院には、道灌廟があります。
道灌廟内部
洞昌院
太田道灌は、襲撃された後に近くの洞昌院に逃延びるが、洞昌院の門が閉ざされていたため、寺に逃げ込むことができず、力尽きて刃に倒れたとも言われています。
以来、洞昌院の門が閉められることはなくなったそうです。現在門は無し。
上行寺
昭和38年に東京芝二本榎から移転してきた寺で、その由緒はは古く、開創は戦国時代末期にさかのぼる。長く江戸にあったことから、寺内には歴史的な著名人の墓を見ることができます。
蕉門の十哲に数えられる俳人の「宝井其角」や解体新書の翻訳に参加した名医「桂川甫周」、槍の名人「丸橋忠弥」(由井正雪の判幕府陰謀に参加)、将棋師「大橋宗桂」など、名だたる歴々が静かに眠っています。
将棋の名人 「大橋宗助」
昼食は山口家住宅(旧家)の軒下をお借りしました。
山口家住宅で記念写真
山口家の建物はもともとは上糟谷石倉にあったもので、曳家され現在の地に移動。
すごく太いケヤキの家だからできたのでしょう。
山口家は江戸初期より三ノ宮で名手を務めていた。中頃には江戸幕府6代将軍家宣と7代将軍家継の御用人として活躍した間部詮房の弟、詮之がこの地を領するようになり、山口家は間部家の家政に深く関わっていたという。当家の質の高い建築は、こうした家柄とそれに裏打ちされた財力を反映するものであろう。明治時代時代には、自由民権運動の結社である湘南社の初代社長に山口左七郎が就任し、屋敷は湘南講学会の会場としても利用された。左七郎は第一回衆議院議員になっている。
主屋と離れは、平成11年に国の登録有形文化財となっています。
五霊神社
ここで雨がポツポツと降り始めましたが、ほんの一時ですぐ雨は上がり、最後の予定の五霊神社へと向かう。
1494年9月13日、伊勢新九郎長氏(北条早雲)は旧友太田道灌の非業の死を悼み、家臣山田伊賀守に命じて道灌の冑を納めさせ太田三徳命として五霊社に合祀した。
道灌と早雲はともに1432年の生まれで、1476年に起こった駿河の守護今川家内紛の際には、互いに協力してこれを鎮定した旧知の間柄であった。
早雲はこれを機に興国寺城主となり、後の関東制覇へ向けて最初の足がかりを掴む。
太田道灌に対する早雲の友情厚き一面を感じる反面、この時期が道灌を暗殺した上杉定正の急死直後(厚木市七沢の広沢寺及び徳雲寺の記録によれば、定正の死は1493年10月5日)に当たることを考えると、時を移さず道灌を祀った、いかにも策略家らしい早雲の抜け目のなさも窺える。
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